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自己紹介

院長 橋野 俊宏

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橋野俊宏 

1971年6月19日生れの双子座 B型 

兵庫県伊丹市出身

趣味
バスケットボール、自転車、アウトドア、植物観賞、食べ歩き、お酒少々 昔は子供と遊ぶこと

スポーツ歴
幼稚園〜小学生 水泳 小・中・高校〜現在 バスケットボール

好きな言葉
できるかできないかではなく、やるかやらないか

資格
・柔道整復師
・整体師
・日本痩身協会 会員
・内閣府認証NPO法人日本ダイエット肥満研究学会認定 ダイエットマスター
・機能訓練指導員

自己紹介
私は幼少の頃から活発な子でしたが、いわゆる落ち着きがない子でよく学校の先生に「橋野は、大人しい子とも仲良く一緒にいるし、にぎやかな子とも仲良く一緒に遊んでいるな!」と言われていたのを今でも覚えています。今考えるとそれぞれのグループの輪に入り楽しくしているのを見て「落ち着きがない」と思われたのでしょう。おかげで今に至っても友達がいなくてさびしい思いをした経験がありませんでした。
そんな性格だったにもかかわらず、私は一人っ子でした。だから休みの日は、なかなか友達と遊べなかったため、もっぱら遊んでくれるのは父親の役目でした。平日は、遅くまで残業して疲れて帰ってきた父親は嫌な顔もせず遊んでくれていたのを今でも忘れません。それを見ていた母親が「この子はこんなに活発だからスポーツを習わせたらいいのでは」と思いスイミングスクールに習いに行くことになりました。それが幼稚園の頃で毎週電車に乗って通うようになりました。
私自身は当時プールに遊びに行ける感覚で行ったのですが、もちろんそこはスイミングスクールで泳ぎを習いにいく所ですから遊びのわけでもなく、しかもそのスクールは厳しく生徒に指導をしていましたので、習い始めて1,2ヶ月も経たないうちから楽しいどころか嫌やで、嫌やでそのスクールのスクールバッグを見るだけでよく泣いていました。
せっかく習いだしたのに嫌やからやめてしまうなんてことは許してもらえるわけもなく、当時の指導してもらっていたコーチの方のおかげで、小学校低学年には4泳法(自由形、背泳、平泳ぎ、バタフライ)をマスターしていました。その結果選手になることをコーチに勧められました。選手になるとほぼ毎日通わなくてはならなくなり、遠方からスクールに通っていましたので、ひとまずそのスクールをやめて水泳からは卒業しました。
その時に出会ったスポーツがバスケットボールでした。自分が通う小学校の体育館で習えましたので、毎日、学校の授業が終わると練習に行く日々が始まりました。小学校のバスケットは、ただただ楽しくて練習に行っていたのを覚えています。
しかし、中学生になり小学校とは比べものにならないくらい練習が厳しかったのです。先輩は練習が厳しく全員やめてしまい、「自分達の学年しか部員がいない」という精神的なプレッシャーの中、練習の過酷さは増していきました。その当時はつらく逃げ出したい気持ちもどこかにありましたが、「やめてしまおう」とは考えたことはなかったです。社会に出て思ったのが、あの頃の厳しい練習に耐えてきたからこそ少々の事ではへこたれない忍耐力が身に付き、それが自分の持ち味であり長所になりました。結果、小学校から現在(今はもちろんお遊び程度)にいたってバスケットボールを長く続けています。
私はこの整骨院をする前はスポーツインストラクター(スイミングスクールのコーチ)をしていました。教える対象は、顔つけができない幼児、小、中学生の泳げない生徒、選手コースの生徒、大人の初心者の方からマスターズ大会(大人の水泳競技会)に出場する方まで幅広く指導させて頂きました。いろんな年代を指導していたこともあり、同じことを伝えるのにも年代、その人のレベルによって数通りの伝え方を必要としました。ただ伝えるだけではなく理解してもらうという難しさを学びました。
今の仕事は治療するだけではなく、症状の説明、生活でのアドバイス等患者様に理解をしてもらえるようなカウンセリングが必要であり、コーチ時代に身に付けたわかりやすい説明能力が役に立っています。おかげさまで多くの患者様より「説明がわかりやすくてよく理解できました」とお声をいただいています。

整骨院での仕事をしたくなったきっかけは…

コーチをしていた時期に、スイミングスクールなどのスポーツクラブではプール=泳ぎを習いに来る所でしたが、ある時期からプール=リハビリや健康維持のための予防に通う施設に変わり始めていました。運動しても体重の負荷がかからないというプールの特性を生かし、リハビリや運動不足の解消で来られる方のために泳ぐのではなく、水中で歩いたり走ったりジャンプしたり様々な動きをして筋力を鍛えたりする水中エクササイズのレッスンも担当するようになりました。 その頃プールに習いに来られている会員の方とお話しをしていて「腰が痛いくてつらい」、「膝が痛いから歩くのがつらい」、「腕が痛くて上がらないんです」と体の不調を訴える方が非常に多くおられました。
それまで泳ぎを教えるコースではそのような声はほとんど聞かなかったのもありますが、「こんなに体の不調を訴える方がいらっしゃるんだな」と感じました。その時ある思いが頭をよぎりました。
「こんなに多く痛みや、体の不調を訴える方がいらっしゃるんなら、リハビリや健康維持のお手伝いをするのにとどまらず、治してあげることはできないのか」
と考えました。
すなわち治療してあげれないかと・・・。
それから何か方法はないかと考えました。
その当時、私の家庭は夫婦、子供2人の4人家族の共働きで妻のお腹には3人目の子供がいながら整骨院の受付のパートで働きに出てくれていました。ある日妻とプールでのリハビリの事や体の不調を治してあげたいことなど話をしていました。
すると一言
「整骨院ができる資格取ってやったらええやん」
と言われました。
その言葉には私も驚き、そんなに簡単に言われましたが、やるとなると今のプールの仕事を辞めて学校に3年間通い国家試験を合格しなければなりません。もちろん4人の生活もありますから学校にだけ通うといったことはできず学費を払い、なおかつ生活をしていかなければなりませんでした。
共働きをしていて、なおかつこれから3人目も生まれてきますので、経済的な余裕も無くとても無理かなって思い、もしやるのなら、もう少し子供が大きくなって余裕ができてからにしようとできない理由ばかり考えていました。
いろんな方に相談しても、応援してくれるより反対する意見が圧倒的に多くもう半ば諦めていました。
その時冷静になって考えました。「いま子供が小さいうちに転職を考えないと、これから先、子供が成長して学費とかいろいろお金がかかるので、その時こそ絶対無理や!」と思いました。もちろん私自身もやらないで後悔をするのなら、やって後悔するべきだと考えていましたので、できない理由を1つ1つ解決していこうと決心しました。
両親には強く反対されていましたが、何とか説得し金銭面の問題も解決させて、コーチの仕事を辞め接骨院(私の師匠の接骨院)に助手として働かせてもらいながら学校に通う日々が始まりました。
勉強をするといった環境から10年以上経っていましたし、もともと勉強は得意ではなかったものですから、授業の内容もなかなか頭に入らず頭が痛い毎日でした。
修行先の接骨院では高校を卒業したばかりの若い助手の者たちと一緒に経験を積ましていただくので、年齢など関係ありませんでした。朝は早くから来て開院前に準備をして、午前の診療時間の業務をこなし、その後学校に行き授業を受けて、終わると院に戻ってきて午後の業務に入るといった毎日でした。その日の業務が終わるとミーティングをして終わるのですが、助手はここから掃除をして終わるとやっと技術の練習をさせてもらえました。
もちろん私は学生でしたので夜遅く家に帰ってから本業の勉強が待っていました。家に帰ると父親ですから子供の相手もしてあげなくてはいけませんし、それがかえって頑張る力になったんだと思います。
そんな時にある若い助手の子が
「橋野さん、結婚していて子供が3人もいて大変ですね」
と言われました。でも私は学生時代に培ってきた忍耐力もありましたが、それよりも自分のやりたいことの為に多くの人に迷惑をかけながらやらしてもらっているというおもいがありましたので、つらいと思ったことは一度もありませんでした。
そうしているうちに勉強もはかどるようになってきて、無事学校を卒業して国家試験にも合格することができました。
修行先の院の院長(師匠)には信頼をいただいていましたので、資格を取ると同時に副院長を任されました。修行に行っていた院は、日に150名くらい患者さんが来院するような院でしたので、いろんな症状の方を診させていただくことができ、症状に対しての判断能力、技術力をしっかりつけさせていただきました。
後に自分の院を持ちたいという事で平成19年6月に今の橋野整骨院を開院しました。
現在に至るまで地域の皆様の健康をサポートしてまいりました。
橋野整骨院での皆様との出会いに感謝して、これからもより一層、健康維持の為に精一杯の努力を
してまいります。

橋野俊宏




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